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佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、北海道札幌郡豊平町豊羽鉱山(現札幌市南区)出身〔『熱球・北の軌跡-社会人野球物語』(毎日新聞北海道支社)の「新日鉄室蘭」の項参照〕の元プロ野球選手。ポジションは投手。 == 来歴・人物 == 中学時代は卓球の選手。北海高校では4番打者・エースとして1960年に春夏連続で甲子園大会に出場。春の選抜では準決勝まで勝ち上がるが、山口富士雄のいた高松商に敗退。夏の選手権は準々決勝で静岡高に敗れた。しかし秋の熊本国体では、決勝で米子東の宮本洋二郎投手に3-0で投げ勝ち優勝。卒業後は社会人野球の富士鉄室蘭に入社。1963年の都市対抗に出場。3試合に完投勝利し決勝に進むが、積水化学に3-4で逆転負け。準優勝にとどまるが久慈賞を獲得。 1964年に国鉄スワローズへ入団。スライダー、カーブ、シュートといった変化球で、コーナーを巧みに突くピッチングが持ち味で、1年目から50試合に登板し、10勝を挙げた。その後も2年目は13勝、3年目に12勝、4年目には10勝を挙げて新人の年から4年連続で2桁勝利を記録した。阪神戦に強く、「虎殺し」の異名があった。また打撃がよく、1967年の東京球場での中日ドラゴンズ戦では板東英二からサヨナラホームランを放っている。しかし、翌1968年は3勝、1969年は0勝に終わる。 1970年に中日ドラゴンズへ移籍。この年は二年ぶりに勝利を挙げる。翌1971年は1軍での登板機会が無く、打者への転向を図る。同年は投手登録ながら代打で9試合に出場し、7打数2安打(.286)の成績を残した。だが、結局この年限りで現役を引退した。 引退後はブリヂストンスポーツ東京の販売課長となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤進 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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